他人のものがよく見えるというのは極一般的なことなのでしょう。

鍼灸や手技療法、柔道整復術のような違憲的技術を主体としたものは、言葉では色々表現されても実態はそれほどの違いはないものと思われます。

もう随分昔に鹿児島で拝聴した薩摩焼の第14代窯元、沈寿官氏の講演は印象的でした。 
鶴首花瓶という細い首を真っ直ぐに作るには、首をろくろで伸ばすときに、息を止めて行うということでした。
息を止めて行う。たったそれだけのことですが、花瓶の製作としては極わずかな、ちょっとした部分でしかありません。
しかし、そのほんのちょっとしたことが、真っ直ぐな首を作れるか、首が曲がってしまうかという結果において大きな違いを生むのです。
花瓶を製作している状況を連想してみてください。
息を止めるか止めないかの違いなど、外見からほとんど違いはないでしょう。
技術などの違いは、何れこの程度の違いなのではないでしょうか。
呼吸の吸気時と呼気時における微妙な骨格筋の緊張の変化が手先に伝わり、細い首を作るときに外見からは分からない程度の変化を与え、焼き上がったときには首が曲がってしまう。
しかし、息を止めて行うことにより一定した力度で首を作ることによって曲がらないという、たったこれだけのことを何十年もかかってようやく発見しているのです。
大変な努力の結果ようやく真っ直ぐな花瓶ができるようになりました。
しかし、その何十年の努力の結果えたものは言葉にすればたった一言、「息を止めて」というだけなのです。

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