ー責任を問われること、問われないこと。責任を問うこと、問わないことー
大川小学校では、近隣の小・中学校とは比較出来ないほどの多くの死者を、被害に遭遇した。
地震発生から津波の来襲まで数十分の時間があった。
この間にお避難し被害を未然に防ぐことが可能であったか、不可能であったかが責任を問われるか問われないかを分けるものと思う。
御嶽山の突然の噴火、沢山の犠牲者を出した。
しかし、あまりの突然のことに、誰かに責任を問えるとは考えにくい。
自然災害として不可抗力であったと多くの人々は理解する。
しかし、大川小学校の場合は、責任を問えるのか、問えないのかが簡単に判断出来にくい。
そこに責任を問われる立場に居た人たちの大きな苦悩がある。
そこが多くの死者を出したことと、未だ解決出来ないでいる悲劇である。
しかし、責任の問われなければならないことか、否かを明らかにしなければならないことである。
でないと関係者は救われない。
責任を明らかにされないまま、責任をとらずにすませてしまうことが多いのではないかと思う。
死刑は、自分の死を持って責任を果たしている。社会の制度である。
やはり責任を果たすことは社会におけるルールである。
特に、社会におけるリーダとは、集団を率いる責任者である。
責任者の責任は重い。