妻 志津子は3月から急速に体力が低下しました。
5月に入り自立歩行ができなくなり、私一人では支えることができなくなりました。
5月21日(月曜日)に近くに住む娘のマンションに二人で移住しました。
妻は安心したようでした。
私は、家事が全くできないので、3月から妻に食事を提供するのがとても大変でした。
懸命にみそ汁に可能な限りの食材を入れて、このスープを飲めば大丈夫という食事を作りました。
娘のところに行って、娘は、細やかに調理をしていろいろなものを並べてくれます。
私がスプーンで妻の口元に食べ物を差し出すと、有希(娘)のところは待遇が良くて美味しい、美味しいといって食べるのです。
妻は嬉しそうでした。
そんな2週間を過ぎ、6月4日(日)の夜、10時10分に静かに穏やかな表情で息を引き取りました。
終末期医療としては、とても良い過ごし方ができました。
偶然のことがとても良く連続しました。
妻 志津子に感謝です。
故 妻 志津子の告別式について
この告別式は、故 妻 志津子を主役にしたいと考えました。
50年もの間、私の、家族の支え手として努力してくれました。
この告別式は、志津子が主体的に交流してきた人達との最後のお別れ会にしたいと考えました。
1 羽仁もと子さんの「友の会」、妻は、つくばに昭和54年に転居して以来、30数年「土浦友の会」の人々と交流してきました。
この人たちとのお別れを中心にしたいと考えました。
2 親戚。
この二つの集団の人達にお別れ会のご案内をしました。
結果としては、妻 志津子が喜んでもらえるような告別式ができたように思っております。
西條一止が交流していただいてきた方々には、お悔やみの機会を、お知らせしないままに、故 妻 志津子の告別式を済ませました。
このことの欠礼を深くお詫びします。
西條一止は、故 妻 志津子が私の職業人としての50数年もの間支えてくれました。
私に残された時間を妻の遺志をも受け止め、社会のために貢献できるように努力したいと思います。
ご香典等はご辞退させていただきます。
よろしくお願いいたします。