先ずは実践とばかり、雨樋を切ったわけですが、この雨水をどう活用できるようにできるかが問題でした。
専門家に頼みお金をかければ何ということもなくできるのでしょうが、それでは面白くありません。
色々アイディアを試みながら雨水を庭で活用できるようにしましたが落ち着くまでに数ヶ月かかりました。
この過程でも色々学ばせてもらいました。


私が子供の頃は(昭和20年代)夕立はシャワーのように思っていました。
裸になって身体を洗ったものです。ところが今は、雨は汚いのです。
特にポツポツ降る雨は、このぐらいの雨は大丈夫と言って傘なしで歩いたものです。
この程度は雨水でぬれないという意味での大丈夫でした。
しかし今は、降り始めてから1mm程度までの雨が一番汚れているのです。
空気中の浮遊物を沢山含んでいます。

雨量を量り始めて間もない5月17日の朝でした。
庭に出て雨量を見ると55mmも降っていました。
我が家の屋根の広さはおよそ100㎡あります。
55mmということは、ドラム缶にして5.5本分もの雨が屋根に降ったことになります。そしてその雨は雨樋でそのまま下水に入り海に流されました。
雨は大地に降って草木を育てることで太陽エネルギーを地上にエネルギー転換しています。
雨にその役割を果たさせないまま海に返してしまっているわけです。
そのことをほとんど気にしたことがありませんでした。
気付いてみると、まさに「気付かぬままの不善」をなしているわけです。
建築の方には雨水を雨樋で下水に導くことは極常識的なことになのだと思います。
私もその時まで特に考えたことがありませんでした。
しかし、分かってみるとこれははなはだ遺憾であると思いました。
そして早速、雨樋を地上70cm程のところで切ってしまいました。

三つ目の降った雨をそのまま観察してみた結果、雨を容器に溜めるとほとんど減らないということでした。毛細管現象で水を吸い上げるような水が蒸発しやすい条件がないとほとんど蒸発しないことが分かりました。ダムの水は蓋をしなくてもそうは減らないのだということを納得したわけです。至極当たり前のことが実際に当面してみてなるほどと納得するわけです。

二つ目の木の下で量ったことから、3,4mmほどの雨は、我が家の庭の程度の木々でも保水し、地面には雨が届きにくいことでした。つまり数㎜の雨は、木々の根に水を与えてはくれないということのようです。山の木々の役割をあらためて納得しました。

一つ目の通常の降雨量の測定からは、水戸の測候所の永年の記録と比べてみて、年間の降雨量は、1300mmというところはあまり変わらない。しかし、月別の降雨量が大きく変化することが分かりました。
このことが梅に実を付けなかったり、秋の紅葉が見事であったり、ということなどの現象を演出しています。したがって木々にも給水の補正が必要になっていることが分かりました。以来、我が家の庭の木々は、必要な水の供給を受け元気です。

雨の降り方を3通りの方法で量りました。一つは、できるだけ雨を上手に受け止められる空の下です。二つ目は、木の下の測定をしました。これは木々がどのように保水するかを知ろうとしました。三つ目は、少し大きなバケツで降った雨がどのようになるのかを観察しようと思いました。

降雨量のおよそを量るのは簡単なことです。円筒形のコップがあればそれで十分です。定規で雨の積もった深さを測るだけです。1日、2日出張しても積もった雨はまっていてくれますから、帰宅して量ればよいわけです。近年はかみさんも協力してくれるようになり、お陰で今日まで続いています。この雨を量ることから、沢山のことを学びました。

樹を見ていても、その状態を知る能力を持っていないことが残念でした。樹の状態を知ることができない。その能力を身に付けるには時間が必要です。今の私の力で樹の状態を見て判断する力はないけれども、雨の降っている状態を知ることはできるぞと考えて雨の測定を始めました。以来、9年目になりますが、我が家の庭に降った雨の記録をパソコンに記録しています。

4月になって、NHKの気象の時間に今年の2月3月は大変雨が少なかったという放送をしていました。私は、毎朝、梅の花を眺めていましたが、何となく雨が降らないなという思いでいましたが、明確に雨が木々に不足しているという認識にはなっていませんでした。
今年の春の雨不足が梅の実を付けさせなかったのかということに思い至り、水が不足なら、水ぐらいあげられたぞという思いで、毎朝花を見ながら水不足に気づけないことを残念に思いました。樹については素人ですが、人の健康管理をしようという私が、樹の水不足の声に気付いてあげられなかったことが残念でした。

私の家の庭には紅梅と白梅が一本ずつあります。白梅は毎年、通常の年には21日に開花します。2001年の春も21に開花しました。私は毎朝、梅の花を眺めては大学に出勤していました。梅は、葉が出るよりも咲きに実を付けるのですが、この年はほとんど実を付けませんでした。友人にたずねてもやはり実を付けていませんでした。

私は1938年8月14日生まれです。満70歳になりました。そして思うことです。

老人という言葉への抵抗感があります。老人のいう言葉には、人生の仕事は終了したというようなイメージがあります。本人は終了したという思いではいませんから違和感が生まれます。

私は60歳前に長男のところに子供が生まれることになりました。長男に孫が生まれることはとても嬉しいけれども、おじいちゃんとはいわないでくれといいました。気分としておじいちゃんにはなれなかったのです。おじいちゃんというイメージが仕事が終わった人のような感じがあり受け入れる状況ではなかったのです。

老人になっての訴えということについて書くにも、年を経て増加する愁訴など極力、老人という表現を避けようとします。自分自身が抵抗感をもっているのです。

老人ですよということを押しつけてはいけないのではないでしょうか。 

私の新聞の見方をお話しします。新聞の読み方ではなく見方なのです。

1 記事を読む。

そして私に必要な記事のタイトルをパソコンに記録し、記事を切り取りファイルします。家族が読む前に切り取ることはできませんから、この作業は二段構えになります。

2 テレビ番組を見る。

自分で見たいと思う番組は予約録画します。このことで自分の生活時間の中で必要な番組を見ることができるようになります。テレビを見ることができる時間にテレビを付けて見るのとは大きな違いです。自分の生活時間に合わせて放送してもらうようにできるのです。お金と時間をかけた貴重な番組があります。空気中に電波を飛ばして情報提供しています。これを上手にキャッチするかどうかです。ビデオデッキは安くなっています。自分の生活の組み立てをどう考えるかです。

3 広告を見る。

新聞には様々な広告があります。私は、本の広告を見ます。一般向けの本が新しく出版される時はほとんど新聞広告されてきます。特に新書が充実しています。若手の現役の研究者が1ヶ月前のデータまで持ち込み書かれてきます。一般人向けに書かれますから、当然理解しやすさが身上です。鍼灸の周辺専門領域の知識を獲得する重要な場です。そして広告を見て読みたいと思ったら、できるだけ早く書店に行き買うことです。鞄に入れどこででも読めるのが新書の特徴です。

以上のように新聞を見ることで、電波情報と文字情報をいち早く自分の物にできます。情報を早く知ることは人に先んじることです。発展的な展開を可能にします。

洋式トイレを使うときにこんな経験はありませんか。
 
便座がたまたま上がっていたことに気付かずに用をたそうとする。腰を下げていって便座が上がっていることに気付く、気付かずにおしりがはまる。どうでしょう。
 
便座にどんと腰掛ける人は気付けないですね。気付ける人は、便座にそっと腰掛ける人です。便座にそっとかける、だから便座がないことに気が付けるのです。腰掛ける動作で間合いを図っているのです。
 
人に触れて仕事をする鍼灸師には、間合いを図ることがとても大切です。自然に患者さんに接する技術は、単に距離だけではなく、触れ方の手順、時間の間合い、会話の間合いなど、間合いが大切な役割をしています。
一本のお箸がありました。
お箸であることがわからない人には、それがどんなふうに役に立つものかは、全く解りません。
お箸であることがわかる人には、一本では役に立たないということになります。
しかし、一本で役に立たないお箸でも、もう一本揃えば、立派に一膳のお箸として役に立ちます。
一本で役に立たないと決めつければ、全く役に立たず捨てるしかありません。
そこでです。
どうすれば役に立つ存在になり得るかと考えたとしたら、
お箸はもう一本あれば立派なお箸です。
もう一本のお箸とは何でしょう。
お箸は二本で一膳ですが、二本がそれぞれ別の機能をして協力するからものをつまめるわけです。
相手になって互いに助け合える存在です。
お箸であれば、同じ動きをするものが何本揃っても一膳のお箸にはなりません。 
二本で一対になれるものが必要なのです。
これは役に立たないという判断は、それがなんであるかをわかる人には誰にでも出来ることです。
全てのものは貴重な存在です。どうしたら役に立つ存在になり得るかを、考えることこそ、考えるということであり、努力することであり、人々の力を無駄にせず、歴史を踏まえるということでしょう。
一本のお箸の相手を探すことです。
ものを置く支えであれば、3本になれば立派に支えられます。三ヶ所から支えるということが意味を持つわけです。どのような支えがあれば、三ヶ所になるのかを探すことです、
一本のお箸であることを知ったら、もう一本のお箸が何処にあるのかを探すことこそ科学的にものごとを推進する道でしょう。
それには、今ある、一本のお箸が、どのようなお箸の一本であるかを知ることがまず第一歩です。
それによってもう一本を、何処に求めれば良いかが明らかになります。
存在、全体の仕組みを頭に描き、役に立たない存在であるものの、存在している位置を明らかにすることです。

ナチュラルリズムの最も大切な基本は1日のリズムです。

1日のリズムを上手につくる第1は、朝起きる時間を決めることです。
お休みだからといってお昼まで寝ているというのは身体にとっては好ましくありません。
起きる時間は、自分の意志によって決められます。
しかし寝る時間は必ずしも自分の意志では決められないときがあります。
種々の活動の条件を考え、起きる時間を決めます。
そうすると自ずから寝る時間が決まってきます。
起きてから15,16時間後に眠くなります。

睡眠は、健康な身体にとって大切なものです。
生活の事情によって睡眠時間を削っている人が大勢おります。
健康を害そう害そうとしているようなものです。
起きる時間と睡眠時間は、優先的に確保しなければなりません。

1 自然治癒力を高める  外関刺激

2 身体の反応の特性:方向性を活用する 姿勢:交感神経機能

3 身体の持つリズムを活用する 呼吸:副交感神経機能

4 ツボを上手に見つける
  ツボは、およその位置が決められている。最後の決め手は触れた感じである。
  ツボが正しくとることができないという不安を捨てる。
  ツボを上手に見つけるには、

  ① 手の指先を目にする。

  ② 身体の触れて見るところを目にする。

5 ツボの上手な刺激の仕方

  ① 皮膚への刺激は、軽くなでる。軽く叩く。力を入れてはいけない。

  ② 筋肉への刺激は、しっかり押す、しっかり揉む。
   しっかりとは、ちょっと痛みを感じる程度である。苦痛を感じるほどの刺激をしてはならない。

  ③お腹や顔は優しくが原則である。

4 指の動かし方は、原則は、その部に応じて動かし易くである。心地の良さを指標とする。

5 筋肉などの固さを和らげるには息を吐くときに押すのがよい。

6 ボディケアを行う時間

  ① 特定の時間にこだわらない。

1 1日のリズムをつかむ

早起き:一日のリズムは、朝起きる時間を決めるところにある。休息の代表である夜の睡眠は健康な生活に欠くことのできないものである。人間社会における諸々のことよりも優先されて大切にされる価値あるものである。

日本人の平均睡眠時間は、6.5時間である。

東京の8月の日の出時間は5時前である。日の出時刻頃におきるのが望ましい。平均睡眠時間を6.5時間として、22時30分に就寝する。22時30分などと書くと現代人は夜型にシフトした生活時間になっているので、驚く人も多いと思うが、朝5時に起きれば朝の貴重な時間を確保できる。どこで寝るかの問題であり、日の出少し後というところは、1日のリズム形成には有利である。 

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