つくばの紅葉を整理してみました。2005年の紅葉が最も綺麗です。
つくばの紅葉を整理してみました。2005年の紅葉が最も綺麗です。
鍼の基礎的反応(刺鍼によって起きる反応)
1 解けにくい筋の過緊張を解き、血液循環を良くする。
2 全身反応として
ストレスによる交感神経機能過緊張
副交感神経機能抑制
を改善する。
鍼の臨床的反応(刺鍼による反応と身体の仕組みが関わり誘起する反応)
3 身体の治す力を高める
副交感神経機能を高める。
交感神経機能を高める。
身体の仕組みを活用して
自律神経の調節力を高める。
4 閾値下刺激を活用して
自律神経機能の動きやすさを作る。
身体の仕組みを活用して
身体に必要な反応を誘起する。
3,4を駆使できる治療を行うことが生活習慣病予防を可能にする鍼治療の道です。
屋久島、あこがれの島です。
何度も旅行を計画し未だに実現していません。
屋久島の清流を実際に見聞きしていません。
しかし、この本の音はすばらしいです。
10万部以上売れているのだそうです。
家で仕事をするときいつも聞きながら仕事をしています。
とても透明感の高い水音、小鳥のさえずりです。
幸せな気持ちにしてくれます。
サウンドヒーリング協会理事長 喜田圭一郎著、マキノ出版です。
つくばのイチョウとトウカエデの紅葉を紹介します。
トウカエデは夏の日照りの被害を受け、枝の先端の葉が紅葉できない部分が沢山あります。
良い紅葉とはいえません。しかし、今、町の中は紅葉で満たされており、温かい気持ちになれます。
春の芽吹きの時とともにすばらしい一時です。
つくばのケヤキの紅葉をご覧に入れます。
ケヤキの紅葉にも色々な色があります。
また、広々したところに植えられたケヤキは見事な枝振りに育ちます。
11月3日夜、楽天の本年プロ野球日本一が決まった。
9回表、最後の守りに田中将大投手がマウンドに立った。
球場は割れんばかりの歓声である。
この歓声に象徴される田中投手の立場を、田中投手、星野監督、選手達が創り上げてきたことを示している。
田中投手は負けなかった。
点を取られなかったわけではない。
点を取られたときには取り返してくれるバックがあり、負けない神話ができた。
球団が一丸となり戦う集団に一つにしたことのすばらしさである。
東北の被災地の人々に力を与え、野球ファンのために期待に応えることを可能にする、球団が一つになり大きな力を創り上げたことに最大の敬意を捧げたい。
「身体の治す力、調節する力」を高める手法としてのM4は、その、浅刺・呼気時・坐位という手法を開発するに、私の40代の10年間がかかりました。
しかしこれは画期的なことでした。
「身体の治す力、調節する力」という発想を持てたことが、その手法に等しいほど大きな意味があります。
その直す力、調節する力による反応を簡単に見る方法として立位体前屈による腰部の可動域を用いてきました。
腰部に触れずに腰部の反応の変化を見てきたわけです。
身体が本来持っている治す力による反応を捉える試みをしてきたわけです。
(そのいきさつは「臨床鍼灸学を拓く」に述べています。)
今回、M4-2を着想するに大きな示唆を与えてくれた本があります。
1 「いのちの体操」菊池和子著、宝島新書です。本との出会いです。
この本を読み、いのちの体操は「身体の治す力、調節する力」に関わっているに違いないと思いました。
気付きです。
早速、確かめを始めました。受容です。
セレンディピティの3条件です。
もう一つ示唆を与えてくれた本がありました。
2 「長生きしたけりゃ ふくらはぎを もみなさい」鬼木豊監修、槙孝子著です。
私の父は、私が小学生の頃には新制中学の校長でした。
新制の中学校は、小学校の隣りにありました。
私は、中学校は父が校長の学校でしたので、校長としての父を間近に観察していました。
家では食卓の位置は、長男として父の隣に座らせられていました。
父は食事の時に色々と教育のことを話していました。
それを間近に聞きながら育ちました。
私は、二分の一の遺伝子は父のものです。
そして、生活環境はかなり父の影響の高い環境に過ごしました。
遺伝子の影響と生活環境の影響が1/2ずつとしても3/4は父の影響下にあったかと思います。父の教え子の方たちとお会いするとお父さんに似てこられましたねとよくいわれます。
生活環境が共通であれば、子どもはかなりの確率で親によく似ます。しかし、生活環境が異なると子どもは親にあまり似ないということにもなります。
孫になると生活環境が共通していると5/8ほど、半分近く祖父にも似る可能性がありますが、生活環境が異なると似るところは遺伝子の1/4、環境を含めて1/8となり、あまり似ないということにもなります。
教育的、文化的環境を共有できれば思考法などもかなり似てくることが期待できそうです。
しかし、生活環境が異なると思考法が似てくることはかなり難しくもなります。
私たちの身体の細胞の構造、機能は遺伝子が決めています。
環境条件が同じであれば、おそらく考え方などがよく似た人間ができる可能性が高いのではないかと思います。
私たちは、自分で考えているように思っていますが、意識下で細胞はすでに反応しているようです。
孫は、自分に近い存在でもあり遠い存在でもあります。
生活環境如何です。
平成3年に筑波技術短期大学視覚部がスタートしました。
視覚に障害のある学生に教育経験のない教員が大勢集まりました。
当時私は50歳で、視覚部長として鍼灸学科、理学療法学科、情報処理学科の3学科の先生方のトップでした。
視覚に障害のある学生への教育はどうするのかということに対して、私は、最も大切な基本は、自分の息子、娘であったらこの学生たちにどうしてあげたいかと考えてくださいといいました。
学問として視覚に障害のある人達への教育論を学ぶ以前に、自分の子どもだとしたらどうしたいかという気持ちこそが本当に必要なことを教えてくれます。
ということです。
自分自身の身近な問題として捉えないと形式的なことになりがちです。「命をかけた仕事」は、我が身の身を切る思いこそが教えてくれることです。
学問的に解決できる問題ではなく、我が身を切る思いが、命をかけた仕事をさせてくれるのではないでしょうか。
息子が高2の春にバイクの免許を取りたいといいました。私は自動車教習所に行くことを許可しました。
6月頃、息子はバイクの免許を取得しました。
息子はバイクがほしいと言い始めました。当然のことかもしれません。
当時は、暴走族などのこともあり高等学校ではバイクを禁止していました。
私は当時、筑波大学の助教授でした。初のボーナスが50万円ほどでした。大型のバイクが丁度そんな値段でした。息子に、ここに50万円ある、バイクを買いたければ買っても良い。
しかし、もし交通事故を起こしたら、おまえは退学、お父さんも大学を辞めなければならないことになる。
よく考えなさいといいました。
数日後に息子はバイクを買わなくて良いといってきました。
夏休みに入ったときに高校で親と子と先生の3者面談がありましたが、息子は予備校の夏休み講座に行っており、私だけが先生との面談にゆきました。
そのときに、先生に息子にバイクの免許を取らせたことをお話ししました。
後で思えばお話ししない方が良かったのかなと思いました。
がお話ししたわけです。
先生は免許を預からせてくださいといわれたので、先生に免許をお預けしました。
夏休み明けに、大学にいた私に電話があり、今日、学校から無期停学であるといわれた。
ということでした。
私は仕事を打ち切り、直ちに息子の高校に行きました。
校長先生、生活指導担当、学年担当、等々6名の先生方と対談になりました。私は、無期停学は親として受け入れられない。
バイクの免許を取ることを親として許可した。
親と息子の関係の中でしたことである。
バイクの乗っていない、まして交通事故など起こしていない。
私が先生に自己申告しただけである。
学校に迷惑をかけてはいない。
と主張し、3日間、高校に出向き議論しました。
結果として校長説諭ということで落ち着きました。
そのとき何名かの生徒が退学させられたりしたようです。
息子を育てるに100%高校に預けているわけではない。親と子との関係の中でのことであり、直接迷惑をかけなければ良いでわないかと主張したわけです。
NHK大河ドラマで会津の人間は素直に恭順はしない。という下りがありましたが、私は、振り返ってみると「納得できないことには納得しない」という人生を過ごしてきたように思います。
私の母は、専業主婦でした。子どもが7人おり、私は5番目で長男でした。
小学生の頃、学校から帰ってくると、ただいま、の次に母が見えないと「母ちゃんは?」でした。
これは妹も弟もそうでした。
この「母ちゃんは?」の一言に母親との絆が現れているように思います。
母親と息子の関係は、母親と娘の関係とは少し違うのかなと思います。
私にとって母親はある種の絶対者でした。
なにかの折に姉たちが母親批判をしていました。
内容は全く覚えていませんが、そのとき私は、「母親の悪口を言ってはいけない」と姉たちに刃向かったのです。
そんな思いは私の中で生涯続きました。
母が認知症になり財布がないと騒いだことが起こりました。
初めて母親に意見しなければならない場面に遭遇しとても悲しい切ない思いで母に対しました。
母は、10年間病院に入院し96歳で亡くなりました。
その間、私はあまり見舞いに行かなかったんです。
行けなかったのではなく、行かなかったのです。
本音は痴呆状態の母の姿を見たくなかったのです。
家内や姉妹たちが良く面倒を見てくれました。
大学が忙しいという言い分けで、甘えていたわけです。
母親はどんな場合にあっても最後まで子どもの味方である。
と私は思っています。
世の母にはそれを全うさせてあげなければ行けないと思っています。
母親の子ども虐待が伝えられます。
大変悲しいできごとです。
母にそんなことをさせる社会ではならないと思います。
暮らしが豊かではなくても、「母の思いを損なわせない」社会にしなければなりません。
先日伝えられた福島第一原発での汚染水を入れるタンクへの汚染水の入れすぎで上から溢れたという事件、汚染水の処理という重大な問題に対して、あまりにレベルの低いミスです。
こんなレベルで仕事をしているのでは何が起きるか分かりません。
東海村での臨界事故もそうでした。
全くの素人がやっていました。
どんなときでも子どもの味方である母の思いを損なわない社会、母を悲しませない社会の仕組み創りが基本ではないのでしょうか。
命をかけてやらなければならないことではないでしょうか。
近年、晩婚、結婚しない、という風潮がかなり強くあります。
私は、教師として50年ほど生きてきました。
学生を思う。生徒を思う。
という教師としての思いの、私自身における変化に思い当たります。
教師になりかけの頃、頭の悪い子には教えたくない。という思いが私にはありました。
しかし、現実に教師になり、学習能力の低い生徒と対面します。
父兄参観日に父兄が来校され子どもについて話されるとき、親御さんだなという思いをフツフツと感じさせられます。
あの勉強ができない生徒に、うちの息子という思いで一生懸命に生きておられる親御さんがおられるということを知らされます。教師としては良くできる子から、できの悪い子までいます。
できのよい子の方が教え易いし、親しみ易いわけです。
しかしできの悪いこの子にも、我が子と思っている親御さんがおられる。
その親御さんの思いを忘れてはいけないなと思いました。
結婚して子どもが生まれ、娘が3歳になった頃でしょうか、休日にすぐそばにある公園に散歩に出かけます。
娘は綺麗な石、光るものを見つけては前掛けのポケットに入れます。
小さなポケットはすぐにいっぱいになります。次には私のズボンのポケットに入れます。
汚いのになーと思いますが、黙って受け入れるのです。
汚いということを教える以前に、綺麗だ、おもしろいと思う気持ちを大切にしてやりたいという思いが自然に浮かびます。
汚いかどうかという知識よりも、いいなと思う思いを大事にしたい、育てようと自然に思うわけです。
教師としては知識を教えます。生きるという力は、知識以前の力です。
親として子どもを育てるという過程で学ばせて貰えるものが沢山あります。
それが教育の場でも活かせるようになります。
同僚の後輩に教師は結婚した方がいいよと私はいいます。
そしてできれば子どもを授かれるといいですねと思います。
教師はできるだけ標準的な人生を経験することが望ましいと思います。
しかしこんなこともうかうか言いにくい世の中になりました。
ちょっと変だと思います。
NHK大河ドラマ「八重の桜」(9月22日放送)が西南戦争になりました。
明治維新の第一の立役者、西郷隆盛が反逆軍の将として散りました。
幕末、明治時代のリーダーは、命をかけて生きておられた様子が伝えられます。
しかし、現代の日本の社会では、命をかけて仕事をしているのでしょうか。
JR函館線の貨物列車脱線事故に関して、JR北海道の野島社長は記者会見で「レール異常 97カ所放置していた」、「後回しで失念」と言っています。
命がけの仕事とは到底思えません。
命がけの仕事で「放置していた」という台詞を言えるでしょうか。
人々の前に立てるのでしょうか。
しかし、こんなことが現代の社会では珍しくないようにも思えます。
仕事に対しての責任の重さについて、科学技術の進歩による仕事の規模の変化が、自らの命をかけることで許されるレベルにない。
たとえば、福島原発事故は、総理大臣が命をかけてすむ問題のレベルではないと思います。
「命をかける」では果たせそうもないことに関しては、「不測の事態が起きない仕組みを作るために」命をかけて努力する。汚染水問題でも東京電力で2年間放置されていたと言われます。命がけで仕事をするとはどんなことなのかが不明確です。
いじめ」が問題になるとき、「死ね」という言葉が浴びせられる。
メールなどが届く。といわれます。
人に向かって「死ね」と通常いいますでしょうか。
決していわない言葉です。
相手を殺すということを意識するのは、自衛手段として、殺されると思うときでしょう。
しかし、テレビゲームや、漫画などで、異常なことが日常的に行われていることが、現実と仮想の世界との区別をできにくくしてはいないでしょうか。
そんなことが人に向かって「死ね」という言葉を簡単に吐かせるのではないかと思います。
日常的でないことを日常の世界のように誤解させるようなことを私たちの周りからなくすることが必要です。
電車の中でお化粧をする。過去には通常ではなかったことです。
しかし、今では通常と思っている人達が沢山います。
NHKの大河ドラマで新島襄と八重さんとの場面で、新島襄は「八重さん」といい、八重さんは「襄」と呼び捨てにする。
現在の日本の文化としてもちょっと変ですよね。
異常なことを日常生活の中に持ち込むことは、まして「死ね」のような台詞が、簡単に口をついて出るような状況を社会が持ってはならないのです。
8月29日(木)の朝日新聞朝刊の教育面で中高生の「服装、頭髪等」についての記事がありました。
20年前と今を比べたイラストがありました。
20年前ルーズソックス。今はなし。
20年前茶髪。今は黒髪。見出しに「生徒、金髪笑われちゃう」とありました。
医療大学でも学生の茶髪は悩みの種の一つでした。
ハッとして出かけた折に電車で町で注意してみました。
確かに茶髪は少なくなっているようです。
笑われちゃう。ださいと思われたくない。
社会の変化は恐ろしいと思いました。
大学で茶髪を取り締まろうとするのは大変でした。
しかし人は周囲の変化には敏感に反応するわけです。
自分の頭の中には従来の思い込みがあり、周囲の変化に気づきません。
情報の入力があって、ハッとして眺めるとその変化に気づきます。
びっくりしました。
自分は周囲の種々の変化に敏感に気づくと思っていました。全くの思い込み、誤解のようです。
大変暑かった8月も31日です。
3日ほど前からようやく夜冷房なしで休めるようになりました。ホッとしています。
今週の木曜日(29日)に、今、ロンドンに在住している娘家族が帰りました。
7歳と4歳の男の子の孫が二人います。二人になると豆台風です。一ヶ月ほど大荒れでした。
2年半ほどになりますが、現地の学校、幼稚園に通っています。
英語の耳ができたようです。
娘は高2の時に1年間ニュージーランドにホームステイしていましたから、日常会話には不自由しないのですが、近頃は孫に発音を直されるということです。
7歳は音でスペリングができるようです。
英語の音という点では、2年半というこの期間は、両親と二人の孫にとっては違った時間であったようです。
時間は誰に対しても同じ意味と価値を有するものではないことを明確に示しています。
この8月には、家内と二人でロンドンに娘家族を訪問する予定でした。
7月初めにはチケットも用意していた矢先に、家内が3度目の再発が明らかになり、抗がん剤治療が必要となりロンドン行きを中止し、娘家族が帰国したというわけです。
2度目の再発から2年が経過していました。解放されるのかなと思っていたのですが、がんはさすがに手強い相手です。
親しい患者さんがあなたの治療で何とかならないのですか。
といわれます。
治療者としては、正直のところ誠に残念なことです。
一番の問題点は、患者、治療者関係が上手くいかないことなのです。
何とも歯がゆいことです。
2008年から最初は「今日の一言」でスタートしました。やってみると毎日というのはかなり大変で、「土曜の一言」にしました。
75歳になり、後期高齢者という人生の最終コースに入りました。
私自身の気持ちの上ではほとんど変わりはありません。
しかしやはり最終コースです。
どこが違うか、選挙権などの権利は守られるけれども、税金を納めるなどの社会を支える義務からは解放される。
というところでしょうか。
生きるということは細胞が活動することです。
従来とはちょっと違った立ち位置から活動します。
お付き合いいただける方々よろしくお願いいたします。
皆さまへ
いつも当サイトにお越しいただき、心より御礼申し上げます。
今年3月に大学の専任教授を退職しました。
50年に及ぶ教員として専任勤務をしました。
今年8月には後期高齢者医療制度にお世話になることになります。
さて、自由の身となり、新しい企画を考えております。
当サイトも新しい企画に合わせて、全面的にリニューアルすることになりました。
しばらくは「土曜の一言」他の更新をお休みいたしますので、ご了承ください。
引き続きお付き合いいただける皆様にはよろしくお願いいたします。
西條一止
皆さまへ
いつも当サイトにお越しいただき、心より御礼申し上げます。
今年3月に大学の専任教授を退職しました。
50年に及ぶ教員として専任勤務をしました。
今年8月には後期高齢者医療制度にお世話になることになります。
さて、自由の身となり、新しい企画を考えております。
当サイトも新しい企画に合わせて、全面的にリニューアルすることになりました。
しばらくは「土曜の一言」他の更新をお休みいたしますので、ご了承ください。
引き続きお付き合いいただける皆様にはよろしくお願いいたします。
西條一止
「なにか活動すること」、その活動が何であるかが問題です。
何であるかを見極めようともせず唯一生懸命になる。
第2次世界大戦で、日本人はほとんどの人が戦争のために働きました。
日本が勝つためにと思い込んでです。
父母、妻、子どもの生活を守るために自分の命を捨てても尽くす。
戦争では、自分が命を捨てても守りたい生活を互いに破壊しようとするのです。
大きな矛盾です。
日本人は沢山の血を流して学んだはずです。
福島原子力発電事故、3年前のことです。
その傷はとうてい癒えていません。
しかし、政府は原発再開の方向を向こうとしています。
人々の安全な生活を犠牲にしても獲得しなければならないものは何でしょう。
従軍慰安婦の問題もそうです。
戦争は殺し会いです。
戦争での訓練とは殺し会いの訓練です。
殺さなかったら殺されるという精神状態におかれて正常な精神状態で過ごすことは困難です。
人に優しくなりなさいということと、人を殺すということとを同時に行うのはとても困難です。
そんな心理状態におかれている兵隊さんの心理状態を少しでも安定させようとの思考が従軍慰安婦という仕組みを軍隊に生んだのでしょう。
戦争は犠牲を求めるのです。
返ってくるなといって特攻隊の兵士に出動命令を出すのです。
それに比べたら命を捨てろではない。
ということがつくったものでしょう。
戦争下にない、今日の私たちの社会で女性の人格を踏みにじり犠牲にして兵士の心身の健康を確保しようということは受け入れられるはずがありません。
人の命を犠牲にさせることが平然と行われる戦時下において密かに行われたことです。
大阪市長橋下さんは、そこを見誤ったと思います。
私たちの身の回りには種々のことがあります。
「ゆとり教育」、学力低下の原因として悪者にされました。
果たしてそうでしょうか、私はそうではないと考えています。
ゆとり教育は、子どもの自主性を育てる教育のあり方として始められたことです。
自主的に考える力を培うことこそ、最も大切なことです。
何が本物か。
必要とされることはなにか。
自分は何のために生きようとしているのか。
自主的に考えることです。
自主的に考えるのではなく、多くの人が体制に流されるままの社会は、自主的に考えようとする人々を抹殺してしまいます。
(05/27)「社会的孤独」
(05/05)[ 「2021年」聖徳太子、没後1,400年
(02/29)土曜の一言を復活させなければならない責任を感じました
(02/12)「”上を向いて歩こう”全米NO.1の衝撃」
(03/14)美味しいご飯の炊き方